2014年07月05日

≪ サービス付高齢者住宅見学 ≫


先日 本年4月に完成したサービス付き高齢者向け住宅こころの家矢野西へ見学に行ってきた。

住み慣れた地域で、安心して暮らせるように、介護スタッフが24時間365日見守る提携医療健康増進楽しく暮らすがテーマです。

「サービス付き高齢者向け住宅」とは、高齢者単身・夫婦世帯が安心して居住できる賃貸し等の住まいです。高齢者にふさわしいハード(バリアフリー構造・一定の面積、設備)安心できる見守りサービス、ケアの専門家による(安否確認サービス・生活相談サービス)

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お問い合わせ・見学会へのご参加は 090−5691−1312





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2014年07月03日

≪ 礼儀の基本は三つ ≫


およそ人の人たる所以は礼儀なり。礼儀の始めは、容体を正し、顔色をととのえ、辞令を順にするに在り。  [大学・中庸](礼記・冠義)

社会人として世の中に立っていくためには、礼儀の基本ぐらいは、しっかりと身につけておく必要がある。

では、礼儀の基本とはどういうことなのか。「礼記」は次の三つあげる。

1、容体を正す―― 姿勢や態度、歩き方をきちんとすることだ。歪んだ姿勢やだらしない歩き方をしていたのでは、体にもよくないし、まわりに与える印象もよろしくない。また、姿勢や歩き方をきちんとすることによって、内面のあり方を正すというメリットもある。できれば、「姿勢はまっすぐに、歩き方は軽やかに」を心がけたい。

1、顔色を斉える―― へんな顔つきをしないということ。笑うにしても歯をむき出しにした笑い方は避けた方がいいし、悲しむにしてもとり乱すような悲しみ方はしないということ。

1、辞令を順にする―― 言葉づかいに気をつける。挨拶のしかたも知らないし、人にものを頼むさいに頼み方も知らないというのでは、社会人として失格だと言わざるをえない。


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2014年07月01日

≪ 本物の人格者 ≫


婁公(ろうこう)は成徳なり。われ容(い)るるところとなること久し。  [十八史略]

人に何かしてやると、そのことを相手に知らせてやりたいのが普通である。黙っているのはむずかしい。とくに昨今のように、「ギブアンドテーク」の世の中では、相手に知られなければ意味がないということになる。

ところが、唐の則天武后(そくてんぶこう)は残虐な女性として悪評が高いが、一面では、よく人材を登用してその能力を発揮させた。そこで彼女の時代には名臣が輩出しており、皮肉なことに彼女の晩年、クーデターをおこして暴政に終止符をうったのは、その名臣のひとりであった。

それはさておき、狄仁傑(てきじんけつ)という剛直な宰相がいた。かれは、温厚で知られる婁師徳(ろうしとく)とそりがあわず、ことごとに婁師徳を非難した。ところがあるとき、則天武后が狄仁傑にいった。

「私が、そなたを重く用いているのは、婁師徳の推薦があったからなのですよ」狄仁傑は御前を退出してから、思わず感嘆の声をもらしていった。

「婁師徳の人格は本物だ。知らぬまに、ずっとかれの懐に包まれていたとは」人のためになることをするときは、「してやる」という考えを捨て、反対給付も期待せず、自分の喜びか物好きのつもりでやったほうがいい。それならお返しがなくても腹を立てずにすむ。




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2014年06月28日

≪ 不作法を怒る前に ≫


敬せられざるに至れるは、これわが徳修まらざるなり  「史記」

相手から敬意を持たれない、つまりあまく見られるのは、自分のほうに敬意を持たれるだけのものがないからだ、という意味。

これが形だけとなると、「わが不徳のいたすところ」という今日の政治家などの使い方となる。

ひとかどの遊侠の徒として知られる郭解(かくかい)が、ある日、外出した。かれと見ると人々は道をゆずるのが常だったが、その時は、一人の男が不作法に足を投げ出したまま郭解を見ていた。郭解は手下に命じてかれの名を聞いてこさせた。

郭解に世話になっている者がこれを見て、郭解が腹を立てていると思い、かわって自分がその男を殺そうとした。すると郭解がとめた。

「いや、あまく見られるのは、こちらがまだまだだからだ」(敬せられざる…)そればかりか、村役場に足をはこんで、頼み込んだ。

「私に大事なことを教えてくれた人だ。ひとつ兵役の義務を免除してやってもらえないか」

まもなく若者がみな兵役にかり出されるのに、その男のところには召集令状が来ない。男は不審に思って役場で尋ねると、いきさつがわかった。

男は郭解を訪れ、その前にひざまずき、肌脱ぎして平謝りにあやまった。


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2014年06月26日

≪ 野菜づくりに挑戦 ≫


庭に菜園をつくり、トマト、きゅうり、ピーマン、なすび の栽培に挑戦した。

ピーマンは枯れてしまったが なんと きゅうり、なすび、トマトは順調に育ち、初取りした。水やり 肥料やり等いろいろと手間暇がかかったが、成長していくのを毎日見ると最高の気分になる。

ましてや、きゅうり、なすび、を初取りしたときは感動した。

野菜を育てるのも、人間を育てるのも一緒、これからも、少しづつ、種類を広げようと思う。

「きゅうりとなすび、トマト」

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2014年06月23日

≪ 人間には八つの欠点がある ≫


人に八疵(はっし)あり   [ 老子・荘子 ]

人間には、次の八つの欠点があるのだという。

1、揔(そう)。自分がやるべき仕事でもないのに、余計な手出しをする。つまりは出しゃばりである。

2、佞(ねい)。聞かれもしないのに、こちらからしゃしゃり出て意見を述べる。つまりはおべんちゃらである。

3、諂(てん)。相手の意を迎えて調子を合わせる。つまりはおべっかである。

4、諛(ゆ)。是非のけじめなどおかまいなしにしゃべりまくる。つまりはへつらいである。

5、讒(ざん)。なにかといえば他人の悪口を言いたがる。つまりはねたみである。

6、賊(ぞく)。他人を仲たがいさせ、親しい者同士をを離間させる。

7、慝(とく)。悪をほめ善をけなして相手をダメにする。

8、険(けん)。善悪におかまいなしに愛想をふりまいてあいてにおもねる。

全部とは言わないまでも、この中の一つや二つは、誰にでも覚えがあるかもしれない。「荘子」はこの八項目をあげたあとで、「この八疵は、外は以って人を乱し、内は以って身を傷(やぶ)る」と語っている。
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2014年06月21日

≪ 人間鑑別法 ≫


人の心は山川よりも険しく、天を知るよりも難し 「老子・荘子」

なぜ人の心を知るのは天を知るよりもむずかしいのか。天には春夏秋冬、朝と晩といったぐあいに一定の周期があるのに対して、人間は容貌を飾って心の中を外に見せないからだという。だが、そんな人間でも、相手を見分ける方法があるのだとして『荘子』はつぎの八項目をあげている。

1、遠方で仕事をやらせてみて、相手の忠誠心をためしてみる。

2、近くで仕事をやらせてみて、相手の人柄を観察する。

3、面倒な仕事を担当させてみて、相手の能力をためしてみる。

4、思いがけない質問をしてみて、相手の見識をためしてみる。

5、あわただしく約束をとりかわして、それを守るかどうかをためしてみる。

6、お金を与えてみて、どの程度思いやりがあるかを観察する。

7、酒に酔わせてみて、社会人としてのケジメのつけ方を観察する。

8、女と一緒にしてみて、どの程度色を好むかを観察する。
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2014年06月17日

≪ 切磋琢磨 ≫


匪(ひ)たる君子有り、切るが如く磋(する)が如く、琢(う)つが如く磨くが如し。 [漢詩名句集]

人格の向上に努める君子をほめたたえ、理想的な領主を賛美する「淇奥」の詩の一節で、”切磋琢磨“の語源となったという。

淇の川の畔を見渡すと、緑の竹が美しい。その竹のように立派な領主さま(匪たる君子)は、細工師が象牙や玉を切ったりやすりをかけたり、つちとのみでけずったり砂や石で磨いたりするように修養を積み、威厳があって寛大、英明で穀然としていらっしゃる・・・。

ひとくちに、”切磋琢磨“といってしまえば、抽象的で実感に乏しい言葉になってしまうが、切る・磋る・琢つ・磨くのいずれも、骨身を削る痛みをともなう動作である。

心身を苦しめるほどの修練にうち勝たなければ、本当に自分をみがいたとはいえない。とある

ところで、自らをきびしく律し鍛えてきたことが、他人に対するきびしさを生み、寄りつきにくい人柄を育てる例も見受ける。わが身の痛みから、他人の痛みへと理解が広がらなければ本物とは言えないのではないか。

この詩の終章が、「冗談がお上手で、けっしてひどいことはなさらない」と、心からなる親愛の情でしめくくられているのは、まことに示唆的といえる。
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2014年06月13日

≪ トップリーダー七つの戒め ≫


はかるなきに儆戒(けいかい)し、法度を失うなく、逸に遊ぶなく、楽に淫するなく、賢に任じて弐するなく、邪を去って疑うなく、疑謀は成すなかれ。 [大学・中庸]

政治に当たる者の心すべきことを七項目あげている。政治だけでなく、すべての組織のトップリーダーにとっても、そのまま当てはまるのではないか。

1.今好調だからといって、行先きどんな事態が待ち受けているかわからない。そういう不測の事態に対する備えを忘れないことが、「はかるなきに儆戒す」である。

1.「法度を失うなし」とは、法律を踏みはずさない、ケジメをきちんとつけるということ。

1.「逸に遊ぶなし」とは、安逸に流れないこと。トップがこれをやっては示しがつかない。

1.「楽に淫するなし」とは、楽しみに溺れないということ。溺れたのでは本業がお留守になる。

1.「賢に任じて弐するなし」とは、すぐれた人材を登用し、信頼して仕事をまかせること。

1.「邪を去って疑うなし」とは、悪は断固として取り除くということ。

1.「疑謀は成すなかれ」とは、これはどうかなと思ったことは、初めから実行に移すな、新しい事業に着手するときは十分に計画を練りあげてからやれ、ということ。
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2014年06月10日

≪ 指導しながら指導者ぶらない ≫


紅海の能(よ)く百谷(ひやくこく)の王たる所以は、その善くこれに下るを以ってなり。ここを以って能く百谷の王となる。  老子

大河や大海が河川の王者となっているのは、低い所に位置して、もろもろの流れを受け入れるからだという。言うまでもなく、上に立つ者は謙虚であれ、と語っているのである。

老子は、言葉を続けて次のように言っている。「立派な為政者は、国民を統治しようとするときは、謙虚な態度で国民にへりくだる。。国民を指導しようとするときには、自分は後ろに退いて、いっこうに指導者ぶらない。だから、上に坐っていても、国民は重いとは感じないし、先に立っていても、邪魔だとは感じない。
このように国民から喜んで迎えられるのは、才能や功績を競おうとしないからである。だから、国民はおのずと帰服する」


これは、民主主義の現代といえども、そっくりあてはまるかもしれない。ただし、現代の政治家は、選挙のときはやたらぺこぺこするが、選挙がすむと、とたんにふんぞりかえる人が少なくない。

こういうぺこぺこは謙虚というよりは卑屈というべきであって、老子の言っていることとは大きくずれている。

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2014年06月07日

≪ 太っ腹の人間的魅力 ≫


善馬を食いて酒を飲まずんば人を傷(やぶ)る。

始皇帝の先祖である秦の繆公(ぼくこう)は、なかなか太っ腹な人物だったという。あるとき、岐山(陝西省西部)の王室牧場から数頭の良馬が逃げ出した。山麓の農民たちが、それを捕まえて食ってしまった。

これを知った役人が調べたところ、関係者は三百人にも上った。役人は全員を逮捕し処刑しようとしたが、報告を受けた繆公がとめた。

〈良馬を食ったなら、酒を飲まないと体に悪いぞ〉繆公は、かれらに酒をふるまい、許してやった。

これには後日談がある。繆公が晋の恵公と戦って包囲され、あわやというときに三百人あまりがかけつけて救ってくれたが、それはかって馬を食った連中であったという。

こういった太っ腹な言動は、作為からだと嫌味になるが、巧まずして人がらから滲み出ている場合は相手をひきつける魅力となる。

後代になるが、秦滅亡のあとをうけて漢を創建した高祖劉邦(りゅうほう)にもこういうところがあったそうだ。かれが郷里の村長だったときのこと。皇帝陵の工事人夫として徴用された村人を、驪山(りざん)(西安市の東)に護送していく途中、つぎつぎと逃亡者が出て、計算からすると到着したころはいなくなってしまう。

劉邦は酒盛りをして「みな逃げるがいい。わしも逃げる」と言って解散してしまった。なかの十数人が後に歴戦の部下となったとある。





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2014年06月04日

≪ 能ある鷹は ・・・≫


鷹の立つは睡るがごとく、虎の行くは病むに似たり、まさにこれ他の人を攫み人を噬(かむ)む手段のところ。ゆえに君子は聡明露(あら)われず、才華逞しからざるを要す。 「菜根譚」

鷹がたたずんでいる姿は眠っているようであるし、虎の歩くさまは病気のように見える。だが、それこそ彼らが、人をとらえ、噛み伏せるための手口なのだ。

賢明さを表わさず、才能を振り回さないのが君子のあり方。それでこそ天下の大事業を果たすことができる。

日本のことわざにも「能ある鷹は爪を隠す」とあるが、軽々しく自分の力量をひけらかすようでは大きな仕事はできない。

何ごともないときは毒にも薬にもならぬ凡庸ぶりで「昼あんどん」と呼ばれていた大石内蔵助が、いざお家の一大事となると抜群の政治力、組織力を発揮して、みごと本懐を遂げた。

強いて無能をよそおわぬまでも、いざ出番というときまでは力を養いつつ控えめな態度に終始していたほうが、演出効果からいっても有利ではないだろうか。
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2014年06月01日

≪ 人を動かす二つのカギ − 心と物 ≫


敵を殺すものは怒なり。敵の利をとるものは貨なり。 「孫子」

〈兵士が敵を殺せるのは怒りの感情があるからであり、戦利品を奪うのは物に対する欲望があるからだ。〉

人を行動にかりたてる「心」の作用は大きい。

人を動かす場合、人に働きかける場合、何よりも相手の心の状態を考えてみよう。

唐の張蘊古(ちょううんこ)は、「人を使うに心をもってせよ」といっている。これは帝王学のABCだ。

もちろん、すべての人が、すべての場合、心だけで動くとはかぎらない。人間はそれほど甘くない。人の行動にかりたてる「物」の作用も無視できない。

心と物。それは車の前輪と後輪である。どちらが欠けても、車はスムーズに動かない。前輪駆動車をえらぶか後輪駆動車にするか、理想的なのは四輪駆動車ではなかろうか。

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2014年05月29日

≪ 人はほめて育てよ ≫


まさに風俗を興し、道業を長ぜんと欲すれば、その譚を美にせざれば、すなわち声名、慕企するに足らず。慕企するに足らざれば、善をなす者少なし。 「三国志」

”鳳雛(ほうすう)“こと龐統(ほうとう)の人物批評は独特で、とかくほめすぎの傾向があったという。ある人がそのわけを聞くと、龐統はこう答えた。

「天下大乱のときを迎えて、秩序が乱れ、善人が少なく、悪人がはびこっている。風俗を正し、まっとうな世の中を実現しようとするからには、かれらに多少誇張した評判をあたえてやらねば、張り合いがなかろう。張り合いがなければ、善行をやる人間はますます少なくなる。かりに十人を推挙して五人がだめだとしても、まだ五人残る。こうして教化をひろめ、志ある者を励ますのも、一法というものではないか」

龐統は、後進の育成に熱心だったといわれるが、彼はほめて育てるタイプであろう。我が日本社会では、叱って育てるのが当然とどの分野でも思われていた時代があった。

だが近頃では、きびしく叱ると大の男が泣き出すという信じがたい話を聞いたことがある。ほめるにせよ叱るにせよ、人を育てる仕事はむずかしい。

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2014年05月27日

≪ 急いてはことを仕損じる ≫


これは大事なり、倉卒にすべからず。 「三国志」

劉備がはじめて 蜀に入ったのは211年のこと。彼を招いた蜀の主劉璋は、大宴会を開いて歓迎した。その劉璋を、この宴会の席で暗殺してしまうよう劉備にすすめたものがいる。

「会見の場で劉璋を暗殺してしまえば、一兵も動かすことなく、いながらにして一州を手に入れられる」というのである。だが、劉備はこういって応じなかった。

〈ことは重大だ。急いては仕損ずるだけだ〉蜀の地を奪いとることは、劉備にとっては既定の方針であり、それでなければ天下三分の計は完成を見ない。だが、劉備は他国に入ったばかりで、まだ人心をえるにはいたっていない。ここで性急な行動に出るのは得策ではない、というのがかれの判断だった。

惰弱な劉璋にあき足りない思いを抱いていた蜀の人は多かったが、他国からきた劉備が、強引な手段でとってかわったとしたら、相当の反発をまねくことは、まちがいない。

劉備は、蜀の地を完全におのれのものにするために、それから二年あまりの時間をかけることになる。結果はそのほうが正解だったようである。
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2014年05月25日

≪ 人をあてにしない、人のせいにしない ≫


その来らざるを恃むことなく、われのもって待つあるを恃むなり。その攻めざるを恃むことなく、われの攻むべからざるところあるを恃むなり。 孫子

〈敵のやってこないことをあてにするのではなく、自分に備えがあることをあてにしなければならぬ。。敵の攻めてこないことを頼りとするよりも、敵に攻める隙を与えない我が守りを頼りとすべきである〉

「備えあれば患いなし」である。人をあてにしたり、人のせいにしたりするのは、いずれも甘えである。

他人の善意に期待をかけすぎたために、あとで裏切られたと嘆くのも、他人の悪意を警戒しすぎて、人間不信におちいるのも、その根は一つ ―― 「われのもって待つあるを恃む」に欠けているからだ。

「君子は何ごとも自分自身の問題としてとらえようとし、小人は何ごとも他人のせいにしようとする」(論語)


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2014年05月22日

≪ ゆとりを持って戦うこと ≫


用兵の法は、十なればこれを囲み、五なればこれを攻め、倍なればこれを分かつ。  孫子

「彼を知り己を知れば、百戦殆うからず」は孫子の兵法の根幹だが、己 ―― 自己の兵力を知ったうえで、これをどう使うかというのが、この項の主眼である。

兵力は、多寡に応じてそれなりの使い方をしなければ生きてこない。

〈兵力に応じた戦いの原則はこうである。すなわち、わが軍の兵力が敵の十倍もあるときは包囲して完全に料理する。五倍であれば正面攻撃する。二倍であればこれを二分して敵を挟撃するが良い。〉

ここでは、理想的なすがたとして、ゆとりを持って戦うべきことが強調されている。無理のない万全な成功をおさめるには、十分にゆとりのある力を備えていなければならない。

問題は、その”ゆとり”の使い方である。どんなにゆとりがあろうとも、漫然と浪費してしまっては、何の役にもたたない。

孫子は十倍、五倍、二倍と、優勢な兵力量に応じた戦い方を示した。これは比喩としても成り立つ。資金量に応じた事業計画やマネーゲーム、あるいは時間の余裕に応じた仕事の進め方。

あなたなら、これをいかに用いますか?


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2014年05月17日

≪ 守りと攻めの原則 ≫


勝つべからざるは守るなり。勝つべきは攻むるなり。

〈勝てるだけの条件がなければ守りを固めるがよい。そして、勝てる条件ががあれば攻撃することである〉

もちろん、勝てるだけの条件が完全にそろっていなくても、奇襲によって勝つことはある。また、追いつめられたとき、「座して死すよりは」というので、死中に活を求めてこちらから攻め、運よく勝つこともある。

織田信長が強敵今川義元を討ち取った桶狭間の戦いなどは、その好例である。

倒産に直面した企業が、思いきって一発勝負に出て、運よく持ち直すこともあるだろう。

だが、これらはあくまで運よく″ということであり、”一か八かであって、必然的な勝利ではなく、緒戦の勝利を永続きさせる保証はない。

それは太平洋戦争における奇襲攻撃のあとを振り返ってみればよくわかることだ。完全かつ安全な勝利は、やはり、十分な力があってこそ攻めて出るべきであり、力不足のときは守りを固めて力をたくわえ、状況の変化を待つべきであろう。

孫子は「守は足らず、攻めるは余りあればなり」ともいっている。



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2014年05月14日

≪ まず隗より始めよ ≫


今王誠に士を致さんと欲せば、先ず隗より始めよ。

隗すら且つ事え見る、況(いわん)や隗より賢れる者を乎。あに千里を遠しとせん哉。

《「いま王が本当にすぐれた人物を求めておられるのでしたら、まず、私、隗からお始め下さい。隗でさえも仕えさせていただくとすれば、まして隗よりすぐれた者ならば十分に尊重されるであろうと、千里の道をも遠しとせずやって来ることでありましょう」》

有名な「隗より始めよ」のもととなった逸話である。このすぐ前に死馬のたとえが出ているから、郭隗は自分を死馬にたとえて、「自分のようなものでも大事にしてくださるならば」と謙遜しながら言ったのである。

昭王は隗のために宮殿を築いて師としてつかえた。やがて、魏からは楽毅(がくき)斉からは鄒衍(すうえん)が趙からは劇辛(げきしん)がというように、諸国から人材が燕に集まり28年間に及ぶ平和と繁栄がもたらされた。




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2014年05月11日

≪ 貧富は自分がつくるもの ≫


貧富の道、これを奪予するなくして、巧者は余りあり、拙者は足らず。

貧富の差はどうして生まれるのか。

金持ちになるのは、人から金が与えられるからである。貧乏になるのは、持っている金を人に奪われるからである。これも一つの解釈である。

あくまでも、自分しだいだ、というのがこの考え方、たしかに、金持ちになるのは、他人から自分に金が渡ってくるということ。貧乏になるのは、その逆。
 
ではどう考えるか。自分のやり方の上手、下手と考えるべきだ、という。経済的運用のしかたが上手であれば儲かるし、下手であれば損をする。

人に頼ったり、人を恨んだりする傾向が自分に残る限り、反省する必要があるとしている。


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2014年05月09日

≪ 心をしっかりと確立する ≫


心ここに在らざれば、視せども見えず、聴けども聞こえず、食えどもその味をを知らず。

体の働きをつかさどっているのは、心である。

心がしっかりと確立されていなかったら、体の働きも正常に機能しない。

その結果、「視れども見えず、聴けども聞こえず、食えどもその味を知らず」では、なぜ「心ここに在らず」という状態になるのであろうか。

「大学」によれば、こうである。「心に忿憄(ふんち)する所あれば規ちその正を得ず。恐懼(きょうく)する所あれば、則ちその正を得ず。好楽(こうごう)する所あれば、則ちその正を得ず。憂患する所あれば、則ちその正を得ず」

「忿懥」とは怒り、「恐懼」とは恐れ、「幸楽」とは好み、「憂患」とは憂い、である。

これらのものによって心がかき乱され、正しいバランスが失われるからだという。だから、常に心の正常な働きを保つためには、それらのものに邪魔されないよう、しっかりと心を確立しておく必要がある。

それが「大学」にいう「正心」、心を正す修養にほかならない。心のバランスを欠いたのでは、的確な判断もできなくなるし、情勢の変化にうまく対応していくこともできなくなる。

一人前の社会人となるためにも、この「正心」の修養が望まれる。



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2014年05月05日

≪ 水のあり方にに学べ ≫


上善は水の如し。水は善く万物利して争わず、衆人の悪(にく)む所に居る。

「上善」とは、理想的な生き方。そういう生き方をしようと思うなら、水のあり方に学べという。

なぜなら、水は万物に恩恵を与えながら、自分はというと、相手に逆らわないで、人の嫌がる低いところに流れていくからだという。

思うに、水には三つの特徴がある。

第一は、丸い器に入れると、丸い形になる。四角な器に入れると四角な形になる。相手に逆らわないで、いかようにもこちらの形を変えていく柔軟性をもっている。
 
第二に、地球上の生物に大きな恩恵を与えておきながら、自分はというと、低い所、低い所へと流れていく。その在り方は、きわめて謙虚である。

第三に、それでいて急流ともなれば、固い岩石のようなものまで打ち砕いてしまう力を秘めている。

こういう三つの特徴をふまえて、水のあり方に学べというのが、「上善如水」にほかならない。

むろん、「柔軟であれ、謙虚であれ」といっても、自分の主体性はきちんと堅持している。それがなかったら、ただの軟体動物になってしまうかもしれない。








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2014年05月04日

≪ 結婚40周年 ≫


5月3日、結婚40周年を迎え。

孫たちが、お祝いをしてくれました。

過ぎてしまえばあっというまだったように思います。かみさんはどう思っているのかわかりませんが

これからもお互いに健康で一日一日を大切に過ごしていきたいと思っています。

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2014年05月02日

≪ いかに有能でも人の助けが必要な場合が ≫


天下に信数三あり。

一に曰く、智も立つるあたわざる所あり。

二に曰く、力も挙ぐるあたわざる所あり。

三に曰く、彊も勝つあたわざる所あり。

この世で言える確かなことが三つある、という。どんな三つか。

1、智者だから功績をあげられるとはかぎらないこと。

2、いかに力があっても、持ち上げられないものもあるということ。

3、強い者が勝つとはかぎらないこと。




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2014年04月30日

≪ 上司とつきあうコツ ≫


密を窺(うたが)わず、旁(みだ)りに狎(な)れず、旧故を道(い)わず、戯色(ぎしょく)せず。


これは、上司に仕えるときの心構えだという。訳してみると、次のようになる。

1、なにか相手の秘密でも探り出そうとするかのような言動はしない。

1、みだりに心安く、なれなれしい態度で接しない。

1、軽率に相手の古傷にさわるような話題をとりあげない。

1、ことさらに相手を軽蔑するような顔つきはしない。

4ヵ条はすべて、部下としてやってはならないことである。これは現代でもまったく同じであろう。

思うに、部下として上司から安心して仕事をまかせてもらえるようなあり方が理想である。

そのためには、何をおいても上司の信頼をかちえなければならない。

いやな相手でも上司は上司である。一定のケジメをつけて接したい。そういうケジメをつけるうえで、この4ヶ条は大いに参考になるであろう。
posted by 吉野山ユッキー at 18:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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